伝説の吉祥姫
昔、光仁天皇が、出雲大社に祈願をされてお后を探されましたある夜、帝(天皇)は夢を見られました。
「出雲の国の上塩冶に、美しくて賢い娘がいる。この絵とくつをもっていって、ひきあわせてみよ。」というおつげがありました。
夢から覚めて枕元をみると、絵とくつがおいてありました。天皇は、たいへんよろこばれて、さっそく出雲へおつかいをだされました。
おつかいの人は、上塩冶で田植えをしていた親孝行で信心深い一人の娘を見つけられました。
その娘は「絵」とそっくりの美しい人でした。そして「くつ」も足にちょうどあいました。娘は、都に出て吉祥姫とよばれ天皇のお后になりました。
やがて老母の病重しと聞いて出雲の上朝山に帰りました。帝もあとを追って出雲に下り、知井宮に幾年か住んで居られました。
帝が亡くなられたので、所原の王院山にお墓を建てました。それが王院ヶ墓(院の塚)と云われています。
その後、吉祥姫も他界され上朝山の大坊に葬られ、地元の人々に五輪さんと呼ばれて、今も人々の進行を集めています。
朝山伝説「金剛峯寺縁起」より。
この他、乙立史佐多町説の外種々の伝説および
異説のあることを念のため付記致します。